石、ときいてまず僕が思い出すのはシーグラスのことだ。海辺に遊びに行った時にはよく探していた。厳密に言えばこれは石とは言えないのかもしれない。海に捨てられたガラスの破片が、波に洗われて丸くなり、やがてひとつの石のようになって海岸に姿をあらわす。色も形も大きさもさまざまある。小学生当時の僕にはもう、しびれるような輝きを持った宝物で、次から次へと夢中になって探し続けた。そして家に持って帰り、机の上にそれらを並べて眺める。

 幸せな時間だった。その時僕の心はときめいていた。

 あのトキメキは、いったい何だったのだろう。人間の、ガラスのゴミを海に捨てるという愚かな行動に対して、そこから新しいものを創造してしまうという態度でこたえる海に、地球に、宇宙に、脱帽するような、ひれ伏すような思いを無意識のうちに感じ取っていたのだろうか。

 そしてそんな存在への憧れから、僕はあの日のシーグラスに、あんなにも胸をトキめかせていたのだろうか。分からないけど、そんな気もする。あの日の僕にはただただ美しかった。ソーグラスの色が、形が、そしてその中に静かに熱く宿されている意志が、僕の心をつかんで離さなかった。だから僕も、シーグラスというひとつの石を、つかんで離さなかった。誰にも譲ることのできない宝物だった。そして、いつかこの感動を分かち合える誰かに見せたい宝物でもあった。その時がくるまで、大切に、僕の中に隠しておこうと思った。僕は、シーグラスを通して、地球の、海の、宇宙の意志というひとつの秘密を抱えていた。

 そしていつしか、シーグラスに与えられたその役目は、別のものへと移り変わっていく。

 僕が思い出すことのできる、次に出会った石は、碁石だ。僕は小学三年生の夏休みに行った囲碁教室の体験会がきっかけで、囲碁をはじめた。その教室の主任、須藤先生の指導が僕にはとても良かったんだと思う。僕は囲碁にのめり込み、みるみる腕を上げていった。

何というかとにかく流れに乗っていた、という記憶がある。石を打つ手にほとんど迷いがなかった。まるで水を得た魚のように、碁石を得た僕は、盤上に僕の中に隠し持っていた、海の、地球の、宇宙の意志をあふれさせていた。もちろん囲碁をはじめた頃の僕の記憶には、負けた記憶がほとんどない。たしかに実際の負けも少なかったのかもしれないが、それ以上に囲碁をはじめたばかりの頃の僕は、碁を通して盤上に、海の、地球の、宇宙の意志を表現できることが嬉しくてたまらなかった。僕なりに思い切り表現することの許される場所を見つけたことで僕のインスピレーションはあふれてとまらなくなっていた。もはや呼吸をするように囲碁を打っていたような気がする。

 僕は昔からかなり勝ち負けにこだわる。絶対に勝ちたいという欲が深い。

 しかし、絶対に勝つためには勝ち負けへの執着をこえて、それこそ呼吸するように、そのことに取り組んでいく必要があると、僕はあの日の囲碁から感じている。

 あの日の僕は無意識のうちに自分の中にある勝ち負けへの執着をこえて目の前のことに没頭して取り組むことで結果的に相手との勝負に勝っていた。

 今の僕は意識的に自分の中にある勝負けへの執着をこえて目の前のことに没頭して取り組むことで結果的に相手との勝負にも勝とうとしている。

 僕が変わったんじゃない。僕が変わらないために必要な技術を身につけた。

 これは僕の生存戦略である。日々日々、磨き続けてどんどん上手になっている。

 ただ生きる。生きてやる。

 呼吸をとめてなるものか。

 2023年5月12日

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カテゴリー: 晴太郎の窓愚痴