僕は言葉を、どのようにして覚えたのだろう。そもそも言葉は、どのようにしてうまれたんだろうか。この世にうまれて、母のお腹の中から外の世界に出てから、僕は僕なりに何かを感じて、それを表現するようになる。否、母のお腹の中にいる時から表現は始まっている。でもそもそも、僕はいったいどこから僕なんだろうか。僕といういのちのはじまりはいったいいつ?僕はそれを実感として知りたくて、こうして文章を書き、絵を描き、歌を歌っているという気もする。そして自分のはじまりを探求していくということは、生命の、宇宙のはじまりを探求するということと、限りなく近い行動のような気がする。でも、全く同じではないというのがまたおもしろいところ。真実というのはいつもひとつだと思う。それは、自分の感覚の中にあるもの。それは、誰かの感覚の中にあるものと限りなく近いものではあり得るけれど、全く同じではあり得ないもの。だから世界には、人の数だけ、いのちの数だけの真実がある。似ていたり、全く違ったりもするだろうけれど、そこには無限とも思える程の彩がある。それが僕の感じる多様性だ。自分の感覚の中にあるものどうしの出会い。それがまた、自分にとっての真実を深め、確かなものにして、世界に一歩近づくことができる。
自分にとっての真実が深まる程に、世界にちらばる無数の真実、その彩りが見えるようになってくる。そして自分もその一部なんだということに気付いて、安心していく。世界への、地球への、宇宙への帰属感を持てるようになる。そうするとより自由な発言、行動ができるようになっていく。思うに、うまれたての赤ちゃんの頃は、誰でも、世界への、地球への、宇宙への帰属感を持っているのではないか。赤ちゃんを見て、触れて、抱っこをして安心するのはいつも大人の方だ。何より、母親の感じる安心は、とてつもないもののような気がする。何があってもこの子を守りたいというのは、例え自分のいのちにかえようとも、この子の与えてくれる安心だけは手離せない、という側面もあるのではないかと思う。それほど赤ちゃんの、子どもの持つ世界の、地球の、宇宙への帰属感はすごい。大人は、そんな彼らの帰属感からくる本物の安心をいつももらっているのだ。
教育という時、僕が最も大切だと思うのは、子どもの持つ世界への、地球への、宇宙への帰属感を奪わないこと。むしろ最大限に尊重し、より強く感じてもらえるように働きかけること。もしすでに奪われてしまっていたり、弱っている子がいれば、再発見して、また強く感じることができるような手助け、働きかけをしていくこと。
土と子どもで、存在とは良く書いたもんだなと思う。土に触れることで、子どもに触れることで、僕らは、世界に、地球に、宇宙に属していることを思い出す。そして安心する。安心すれば自由に表現できるようになる。生きるということを、存在を取り戻していく。
そして言葉を再発見する。見てきたことや、きいたこと、今まで覚えた全部と違う言葉。元々自分が使っていたけれど、だんだん忘れていった言葉。それは、世界でたったひとつの真実。自分の感覚の中にあるもの。
子どものころ、赤ちゃんのころに感じていた世界への、地球への、宇宙への帰属感。懐かしいもの。安心するもの。ずっと昔から変わらないもの。
僕自身が言葉だったんだ。覚えたり教えられたり勉強したりするんじゃなくてある日突然ピンときて、だんだん分かることがある。僕にとって言葉ってそんなものだ。
どんな時代のどんな場所でも
同じように見えるように
どんな時代のどんな僕でも
同じように見えるように
2023年5月7日