夢を語り合ったあの日のことを思い出す。僕らは高校三年生だった。高校のすぐ近くにある総合公園にある、ネットでつくられたツリーハウスのてっぺんにのぼって、受験勉強もそこそこに、それぞれのやりたいことを語り合っていた。
It’s been a long day without you my friend
友よ君のいない1日が本当に長く感じてしまうんだ
And I’ll tell you all about it when I see you again
いつかまた会えたら全て話すよ
We’ve come a long way from where we began
出会ったから本当に遠くまで来たみたいだ
oh,I’ll tell you all about it when I see you again
お前にまた会えたら全て話すよ
See You Again というタイトルのこの曲をききながら、僕はどうしようもなくロマンチックな気分になっていたのを覚えている。あいつらは、元気にしてるだろうか?
今日は、あいつらのいない1日が本当に長く感じる。出会ってから僕は本当に遠くまで来たみたいだ。いつかまたおまえらに会えたら全て歌うよ。
何もなかったのに、まるで何でも持っているような気分だったな。もう、無敵だって思えた。こいつらがいればオレはどこまでだって行けるって。そんな存在だったんだ。
友達ってまあ色々な形があるんだろうけど、オレにとってはダメなところを笑い合える存在だった。オレ達はお互いの最低な部分を許し合っていた。
だから、お互いの最高な部分を生かし合うことができていた。その人の最高の部分を生かすヒントは、その人の最低な部分にあったりする。自分自身のことについてもそれは言えると思う。
きっと僕が、僕らがあの時無敵だと感じて、何でもできると思えたのは、友情を根元に積極的平和人間のつくり方が体現されていたからだ。
僕らは友達だった。でもそれって本来すごいことなんだと思う。だって人の最低なところ、特にその人と仕事をするだとか家族にならだとかすればら許せなくなって、どちらかが攻撃を仕掛ければ果てしない戦争のはじまり、気づけばはじめはあったはずの友情が、どこかへ消え失せてしまう。
友達であるって、本来とてもすごいことなんだ。年齢も、国境も、宗教も、どんな概念だって飛び越えていく。家族だろうと、会社だろうと、国だろうと、すべての人間関係の土台として、友情っていうものはあって良いんじゃないかと思う。それは、お互いの最低なところを許しあい、笑い合えること。良いところを認めるのは簡単だ。でも、ダメなところを認め合えるところから友情ははじまる。笑ははじまる。平和ははじまる。そしてその第一歩は、身近な人からでも良いが、まずは自分自身からだろう。自分のダメなところを認めてあげるんだ。笑ってあげるんだ。自分を平和にするんだ。自分自身と友達になるんだ。
友達がいなくてさみしい。それはまさに、自分自身からの叫びにほかならない。だからまずは、自分自身と友情を結ぶこと。そしたらきっと、さみしさなんてふっとぶ。何だってできると思うようになる。無敵になったように感じる。
本当は敵なんかいないんだ。どこまでも自分との友情を深めていこう。そうすればいずれ、世界中の人達がそれぞれに深めてきた友情の集まる泉にぶつかって、一気に世界はつながりだす。自分を深めきったその先でしか出会えない他者が、友達が、世界平和がある。
あの時、笑いで世界を平和にしたいって語り合ってたおまえらと、また会えたら全て話すよ、今のオレの世界平和を。
2023年5月3日