いのちの郷里はどこにあるのだろう。いつ、どこで、どのようにしてはじまったのか。もし、遠い宇宙の彼方ではじまったのだとしたら、宇宙を目指す人達の気持ちが分かる気がする。そこにあるのは未来ではなくて過去だ。神話ではなくて歴史だ。想像の話ではなくて現実がある。もちろん、地球にあるものの中から僕らの根源を探ることはできるし、大切なことで、それなくして宇宙を探るということはあり得ないだろう。でも僕はふと、こんなことも思う。もしも地球より宇宙が先に誕生しているとすれば、より根源的なのは宇宙ということになりはしないか。それならば、より根源的な宇宙の探索なくして地球の探索はあり得ないのではないか。僕の中で、空と土の概念が逆転していくのを感じる。あの日、映画の中から言われたひと言「土からやり直せ」の意味も僕の中で変化していく。 

 宇宙からやり直せ、僕の身体に、そんな言葉が響きわたる。

 でも、宇宙からやり直す、とは言ってもいったいどこからはじめたら良いのだろう。日常にあふれている宇宙を探してみる。宇宙への秘密の鍵となるもの。より根源的な存在への扉をひらくもの。

 つかもうとしてもつかめない。それでもいつでも確かにここにあるもの。最も近くにあるがゆえに最も遠くにあるように感じてしまうもの。最も大切なものであるがゆえに最もその存在を忘れてしまうようなもの。

 僕にとって、それは時間だ。時間というものは本来、触れることのできるものだと僕は思う。でも、数値化され、枠の中に入れられて、秒にまで細分化されていった結果、見た目には分かりやすく、伝わりやすくなったけれど、実感としてはどんどん感じることができなくなり、今や時間はひとつの概念として、多くの人の人生を、可能性を、ポテンシャルを押さえつける重しのようなものになってしまっている気がする。

 無限とは言わないけれど、本来の時間というものに触れ、その流れに乗ることができれば、自分に与えられた分の人生を、可能性を、ポテンシャルを、最大限に引き出すことができると思う。そうした時にはじめて死ぬということを認められるし、その本当の意味も分かるのではないか。死というのは誰の元にも平等にやってくるものではないと思う。自分の人生をつらぬき、生き切った人のところにしかやってこないものだと思う。死ぬことって本来とっても難しいことだと思う。 

 ちゃんとやり切るってこと。自分で自分の宿題、宿された題を見つけて、腰を据えて取り組み、最後まで終わらせる。一人一人が、ひとつひとつのいのちが完了してはじめて次の人へ、次のいのちへとバトンは渡されていく。自分が生ききれば、その姿は必ず次の世代へと引き継がれていく。発酵中のお酒の中での菌の襷リレーのように、人の、いのちの襷もリレーされていく。

 その襷こそが、僕にとっては時間というものなのかもしれないと思った。僕だけのものではない。ずっと昔の、いつかどこかではじまってから、数えきれない程の人、いのちがそれぞれの文を走り抜き、生き抜いて繋いできたこの襷。そして今、僕の肩にかかっているこの襷。僕だけのものではないが、今この肩にかかっている間だけは僕のものだ。最後の瞬間、死を迎えるその時まで誰にも渡すことはできない。重たいと感じる時もあるが、これがあるからこそ湧き上がるエネルギーがある。生きていくんだと力強く大地を踏みしめて走っていくことができる。

 この襷を止める訳にはいかない。時間なんて誰も持ってない。ただただ受け継がれていく。

 この襷を止める訳にはいかない。時間なんて誰も持ってない。ただただただこの襷を。

 2023年5月1日

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カテゴリー: 晴太郎の窓愚痴