食べる、ということへの認識に、僕の中で変化が起きている。食べる、ということは消費することではなくて、生産することだという身体感覚が僕の中で生まれつつある。人は、食べずには生きていけない。それは、消費せずには生きていけないということではなくて、生産せずには生きていけないということではないか。人だけではない。生きとし生けるもの全てが、生産せずには生きてはいけない。食べるということは、良くするということ。生きとし生けるものによる生産の連鎖によって地球はここまでいのちの襷を繋いできたのではないか。

 ロマンチックすぎるような気もするけれど、これは、閉塞した現状を突き破る発想へと変わる可能性を秘めた妄想だ。今日はその可能性をでき限り広げてみたいと思う。

 腹が減ったという時、実際に減っているものとは何なのだろう。体内の栄養?エネルギー?それっぽいけど、僕は逆に考えてみた方がおもしろい気がする。つまり、腹が減った、という時、体内の栄養、エネルギーは満たされており、それを使って、いざ生産せよ、という合図なのではないか。

 腹が減っては戦はできぬ、ということわざに僕は従来とは違う解釈を与えてみたい。

 つまり、腹が減っている時に、いざ生産せよ、という合図が体から送られてきている時に、生産どころか破壊行為である戦などしている場合ではない、という解釈である。

 戦争をはじめるのは基本的に精神的な暇人だ。時間を生産できることを忘れて消費ばかりしている。一見穏やかな暮らしに見えるけれど、その実日々虚しさは増すばかりだ。そして日々、時間を生産している人、時間を生産している実感から生きる喜びに溢れている人が目に入ると、今の自分が悔しくて、惨めで、認めたくなくて、それを壊しにかかる。それが戦争だ。なにも戦争っぽい戦争に限った話ではない。もちろん、戦争っぽい戦争はおそろしいし、認めてはならない、断固として拒否すべきものだと思う。そしてそれを達成するために避けては通れないのが、自分自身の中での日々勃発する戦争に目を向け、時間を破壊するのではなく、時間を生産する自分自身のあり方へと変化していく必要がある。

 エネルギーも栄養も、本来自分で生み出す力を身体は持っている。それは例えるなら畑のようなものだと思う。外から何の肥料も体内にとりいれないという訳ではない。中には耕さずに肥料も与えない畑のように、何も食べなくても生きていける人もいるけれど、それはひとつの極端な例、そういうことも可能であるということであって、僕はそこを目指している訳ではない。1番の目的は、僕の身体という畑の持つそもそもの地力を最大限引き出すこと。人の身体という面ではそれは血力、とも知力、とも言えるかもしれない。

 このように食べるということは、僕の中で消費するということではなく、生産するということに認識が変わりつつある。食物、つまり、”良くするもの”を消し費やすのではなく、”良くするもの”を生み、そしてまた産むことである。では、”良くするもの”とはいったい何なのであろうか。

 僕の場合、それはやはり”時間”である。そのために僕は文章を書き、絵を描き、歌を歌う。腹が減ったら、そうやってとにかくつくる。そうして腹が満たされたら、時が満たされたということだ。腹時計とは、良く言ったものだと思う。時計は、時の満ち引きを教えてくれる。お腹は僕らにとっての根元的な時計だ。お腹で、潮の満ち引き、時の満ち引きを感じる。それは身体によって、その身体のおかれている環境によって千差万別だろう。本来、万人に共通の時計なんてとのはあり得ないんだ。その時計に狂いなく合わせるようになればなるほど、その人は狂っていく。病気になっていく。戦争になっていく。合わせるべきは自分だけが持っている自分専用の腹時計だ。その時計に狂いなく合わせられるようになればなるほどその人は正気になっていく。健康になっていく。平和になっていく。これが僕のラブソングさ。

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カテゴリー: 晴太郎の窓愚痴