男と女が喧嘩をする理由。認め合えない理由。
近代と言うか、昔からかもしれないが、夫婦になると喧嘩が絶えないことがある。
なぜ喧嘩するかと言うと、お互いを認め合えてないこと大きな理由だろう。
男女の違いを認め合えば、喧嘩はなくなるのではないだろうか。
その夫婦は昔からではなく、元はカップルであった。
カップルはなぜあまり喧嘩が多くないのかは、カップルになりたてはお互いを知るために小出しに身を曝け出し、自分の存在をわかってもらうために愛し合い、話し合い、親しみ合いをする。
その時点ではお互いを認め合うためにやっているから恋が生まれるのだ。
男女は認め合ってカップルになり、ラブラブになり信頼し合うのだ。
この時点をずっと忘れないければ、本当はあまり喧嘩をしなくても済む。
ところが、結婚までいったカップルは、子供を産み、お互いを認め合えていた時のことを忘れてしまうのだ。なぜなら、子供が中心になるからだ。
子供のことを認めようとする親心が、子供に集中してしまい、男女を認め合う事から外れてしまう。そうなったら喧嘩は永遠に続く。それは認め合えない存在に変わってしまうからだ。
さて、認め合うとは、どう言うことかだ。
昨今問題に上げられる男女差別問題。これがかなり厄介で、男(おとこ)女(おんな)と言う言葉を一歩間違えて使うとグローバルリズムの世界では完全に否定していることになってしまう、とんでもない地雷に変わってしまったのだ。
女性の目線、男性の目線と言うのは、どうも違った角度にあると思うのだが、それを一つにしようと思うことが問題なのではないかと私は思うのである。
男と女の違いを認め合うことが重要で、男と女が一緒であることを認め合うのには、やはり無理があるのではないかと言いたい。
確かに男性は大雑把な人が多いだろうが、女性にもそんな人はいっぱいいる。
女性で綺麗好きな人がいっぱいいるだろうが、男性にも綺麗好きは多い。
しかし、生物、植物の中では基本的にオスとメス、オシベとメシベが交尾して子供が生まれる。その基本構造は今も昔も変わらない。もちろん両性具有という生物植物もあるが、それは進化してそこにたどり着いたのだ。
そのたどり着くまでは口論があるかもしれないが、それを喧嘩という形にあるのは平和的ではない。認め合いながら話し合いながら、その後進化していくのが喧嘩を生まない一つの方法と考えている。
よく喧嘩の前の段階で「地雷を踏む」という言葉があるが、その地雷とは何か?
地雷は踏むと爆発する。
その地雷を減らすことを人間(男女)はしているだろうか?
地雷の多くは、環境の違いにあると考えている。
その人の人生の中で、親と共に生きている家族がその環境に当たる。
その環境は様々で、その環境が違うから個性が生まれ、アイデンティティーとなり、色々な人が存在して世界は成り立っている。
その個性を尊重することを今の現代はテーマとして生きているはずなのだが、なぜか話し合いをせずにすぐにケンカという形に落とし込まれる。私はそこが不思議なのだ。
個性を認め合えて入れば、その喧嘩は起こらないのではないでしょうか?
男と女も違えば、男と男、女と女も違いがある。
要は個々体で違いがある。ということ。
その違いは夫婦になってもなかなか一緒になるものではない。
お互いが歩み寄ることはもちろん大事だが、全く100%一緒の性格を持ち合わせるということは難しく、そんなことがあっては個性がなくなってしまうから、存在しない方がましのような感じもある。
一つコップを置くにしても、それぞれのルールというかクセがあり、それでいいのではないだろうか。そのクセに歩み寄ることは大切だと思うが、完全にコピーする形で一緒の行動をとるというのはやはり難しく、それを完コピしろという言い方は、どこかルールの中の命令に近いものだと私は思うのだ。命令されて、それに従うことは、人間という生き物はあまり好まない性質だと思う。
近代の人たちは、その踏んだら爆発する地雷というものの数が多い気がするが、その地雷の数を減らすことは、その人の心の持ちようにあるのではないだろうかと最近強く思う。
その心の持ち用というのが優しさにあると思うのだ。
許せない気持ちを許してあげよう、受け入れてあげよう、いや、受け入れよう。あげてしまうと相手の性にしている気がするから、自分の中で受け入れることを努力していこう。
自分が埋め込んでいるその地雷の撤去作業をしていこう。
その撤去作業を自分の中に消化し受け入れるということが、とても難しいのだ。
その受け入れる優しさが相手に伝わった時に、その他人(相手)も受け入れる準備が整うのだ。
理不尽な戦いはもうやめていこう。そうしなければ未来は楽しくならない。
グローバル化を進めるには、その優しさは不可欠なのだ。他人を認め合う心をすべての人が持ち合わせなければグローバル化など存在しない。
元々それぞれ環境の違うところで生まれ育っている人々がグローバルという言葉の中で一つになろうというのが少々無理があって、その環境の違いを認め合いながら、一つの世界を夢みることは愛らしきことで次の時代のテーマであるのだろうから、みんなで力を(心を)合わせて向かっていかなければ、地球全体の幸せにはつながらないのではないだろうか?

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カテゴリー: UFO通信

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