この世界は良くなっているのか悪くなっているのか、ウルトラマンコスモスにきいてみた。そしたら彼はいつものようにその顔の表情を一切変えることなく、雰囲気にすべてをかもし出してこう答えた。自分で決めろ。誰かが決めたことにすがって後でそれが違ったからって文句を言うダサい人間になるな。どこまでいってもそれは自分の”解釈”でしかない。そしてその”解釈”は”解釈”の数だけある。良いと悪いが両極端だとして、その間には無限の彩りが、受け取り方が、言葉があるんだ。

 僕が思うに、人の言葉が分からないという時は、人の言葉を分かったつもりになっている時だし、自分の言葉が伝わらない時は、自分に言葉が伝わっていない時だ。

 自分から怒りを呼び起こして徹底的に闘おうとする。もはやこれはひとつの根源的な本能のような気がする。本来は生き延びるためになくてはならない、お互いを生かし合うべくあるための力が、お互いを殺し合うべく働いてしまう時がある。では、そんな時いったいどうしたら良いのだろうか。

 僕にとってそれは、ウルトラマンコスモスを呼ぶということになる。誰の心の中にも、いつの日か自分の胸を打つような何か、人でも、体験でも、風景でも、きっと何かしらあるのではないか。ゲームでも、テレビでも、マンガでも、小説でも、童話でも、カブトムシでも、ライオンでも、ドブネズミでも、とにかくなんでも良い。誰もカッコイイなんて思っていなくても、自分の胸を打って離さない何か。そいつを、再び登場させる。僕にとってはそれが、ウルトラマンコスモスなんだ。僕が忘れたつもりでも、コスモスは決して僕のことを忘れはしなかった。いつだって僕に思い出してもらうのを待っていた。記憶ってすごいなと思った。

 記憶って”今この瞬間”の自分を助けるためにあるのかもしれないと思った。ウルトラマンコスモスは僕が思い出すたびに僕が忘れられていたことなんてまったく気にしないような顔をして僕の元へやってくる。信じるのも、信じるのをやめるのも僕だ。僕はいつも自分勝手だ。僕を信じていないくせに、その僕が選んだ何かを信じて裏切られれば、それを選んだ僕ではなく、僕が選んだそのものを、信じるに値する価値なしと決めつける。

 信じるに値するものなんてたったひとつだ。自分自身そのもの。それは、とてもおそろしいことだと思う。根拠がないのだから。空っぽなんだ。それでもなお、信じることができるのかどうか。そこを突き抜けることができた時にはじめて平穏が見えてくる。どっちが意味があるのかと競い、殺し合うのではなく、どっちも空っぽなんだと笑い、手を取り合うことができる。僕の場合は、だ。

 そこに辿り着くまでには色々な矛盾、葛藤、混沌のトンネルをくぐり抜けなければならないだろう。そして抜けたと思えばまた次のトンネルが目の前にあらわれる。果てしない暗闇の中を旅していくことになる。

 もうやめにしようか?自分の胸にきくとまだ歩き続けたいと返事が聞こえたよ。

 今さらもう、戻りようもない。ただ行くだけさ行くしかないのさ。

 あまりにもロマンチックにすべてを解釈する僕は、嫌いじゃない。むしろ、そのウソに磨きがかかってきていてなんだかおもしろい。これからも僕は僕におおいに楽しませてもらおう。いつか僕のウソが本当になったら、その本当を吹き飛ばすようなとんでもないウソで、また僕を笑わせてくれるのだろう。まったくあんたは突き抜けてる。コスモスもびっくりさ。僕が僕にとってのセカイイチだ。

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カテゴリー: 晴太郎の窓愚痴