コンピューターが汚染されて情報が盗まれたり、ハッキングされて操られてしまったり、そのつくり出す世界に夢中になりすぎて現実が見えなくなる、という恐さよりも、人の身体が汚染されて感覚が盗まれたり、思考回路に侵入されて操られてしまったり、その作り出す世界が現実だと思い込まされて夢を見れなくなることの恐さの方が、僕にとっては断然に大きい。僕は誰で、どこにいて、何をしているのか。分からなくなる時がある。与えられた名前、場所、仕事にむなしさを感じた時。僕はその時、おそらく記憶喪失になっているのだと思う。記憶喪失っぽくない、記憶喪失。文章を書き、絵を描き、歌を歌いながら僕は今もその治療中だ。思い出すために書いている。そして少しずつではあるが、僕は確実に思い出している。具体的な名前、場所、仕事というよりは、具体的な”生きている”という”手応え”を、思い出す。迷子になる時は、たいていこの感覚から離れた時だ。地に足がついてない。”生きている”という”手応え”を持たないままで、夢を見る。空を眺める。大学に入学したばかりの頃の僕がそうだった。授業をサボってうちこむ何かも見つからず、ただ芝生に寝転がって空を眺めていた。僕は迷子だった。記憶喪失っぽくない記憶喪失だった。目の前にある、今まさに触れている地面を踏みしめることもできずにただぼんやりと、触れもしないものの中に幻想を抱いて、つかの間の安心の中で、FANKY MONKY BABYSの、「明日へ」という歌をきいていた。
あの頃の僕はただ臆病すぎて自分以外の誰もが眩しすぎて がんばりたいだけど何を頑張れば良いのか分からないままぼんやりと空を見上げてた このままじゃいけないってことは僕にだって気付いていたんだ 誰かのせいにして目を逸らしても何も変わらないこと分かってた
「明日へ」はこんな歌詞ではじまる。そう、僕は変わりたかった。その時の自分があまりにもダサくて何もかもが嫌だと思った。
なあ、どこで間違えたんだろう 歪み元に戻らない ねじれた記憶をほどく 最後に手繰り寄せ
そうすると分かる。何も間違ってなかったこと。ただ、今の自分のままではひらくことのできない自分自身の可能性に出会ったということ。そしてそのことに当時の僕は無意識のうちには気づいていたので”変わりたい”という気持ちを捨てることはなかったし、むしろその気持ちを押し通していった。果たして僕は変わったのだろうか?色々変わったところはあるのだろうけれど、僕の実感としては、ほとんど変わっていない、というのが正直なところだ。
こんな時代にバカをやる。それ自体に意味なんてない。叩かれて、叱られるだけだ。でも、オレたちはバカをやる。それは時代を変えるためじゃない。時代にテメェを変えられないためだ。
日清のカップヌードルのCMで、ビートたけしさんが言ってた。僕はまたひとつ勇気をもらった。色々な記憶が鮮やかによみがえる。動物園のオリを乗り越えてペンギンに触りに行ったこと。おじいちゃんの家の気に入ったタオルを一日中、風呂に入る時でさえ離すことなく握りしめていたこと。授業中にありもしない答えをでっち上げてみんなの笑をとりにいったこと。やらずにはいられなかったんだと思う。今思えば、これは僕にとっては真剣な抵抗であり政治であり、革命だった。僕の中の、愛を、平和を、自由を守り抜こうとしていた。そういう意味で、僕はあの頃から何ひとつ変わっていない。そしてこれからもきっと変わらないだろうと思う。僕だからこそできる抵抗を政治を革命を見つけて、僕の中の愛を、平和を、自由を守り抜いていくんだと思う。