いただきアースで、天波さんの『in soul』という歌の録音が行われました。
メンバーは、地元のタバコ農家さんで、音楽大好きな奨君。もう一人は鹿児島で腱引きをされていて、こちらも音楽大好きな、シーゲル小野さん。そして天波さんに、僕、の四人で行われました。小野さんの作ってきてくれた音源の上に、天波さんのギターと歌をいれて、そこに小野さんのハモリや色々な楽器の音を重ねていく。
その風景を見させてもらいながら、友達で、横浜に住んでるピアノ弾きのgastaの家で三か月ほど前に録音させてもらった時のことを思い出したり、友達で、長野に住んでる井上双葉君の家で三か月程後に録音させてもらう時のことを想ってみたりしました。
まるで、音楽によって道がつくられて、僕はその上を歩いているような気がして、なんだか不思議な気持ちになりました。
最近は、音楽の歴史、どんな人達が、どんなふうに、歌をうたってきたのか、ということに強い関心があります。今、CDで聴いたり、本で読んだりして、特に面白いなあ、と思うのは、アフリカの音楽と、アイヌの音楽です。アフリカの音楽にある、身体の中から湧き出るような躍動感、アイヌの音楽にある、暮らしの中から染み出たような、旋律、リズム、楽しいなあ、とか、哀しいなあ、とか思いながらきいています。
この人達が、どんな生活をして、どんな世界観を持っているのか、まだ探求の始まりで、よくわからないけど、きっと何か、今僕が感じていることを肯定してくれる気がして、僕は今、特にアフリカの音楽や、アイヌの音楽に惹きつけられているのかもしれません。
もう一つ、僕は今、台所の歴史、どんな人達が、どんなふうに食べ物を食べてきたのか、ということにも、強い関心があります。なぜなら僕は、台所で歌うのが、一番好きだからです。僕の大好きな縄文土器。これもずっと昔の台所の一部だったと思うと、見てるだけでぐっと身近な存在に感じられます。特に、あの模様。縄文の台所には、音楽だって当たり前にあったんじゃないかな、と思わせてくれる形をしています。
『人の話に右往左往するな 魂が叫んでる』
天波さんの『in soul』の一節です。
自分がどれだけの人やものに支えられて生きているのか、例えば歴史という側面からそれを感じることは、僕にとって、自分を支える一つの強い力になります。それはきっと、感じれば感じるほど、叫びだす魂になるんだと思います。そして時に、歌として僕の前に姿を見せるのかもしれません。
僕がなぜ歌うのかといったら、自分が何の上に立っているのか確かめる、という一面もあるのだと思います。同じ理由で、僕にとって『土』は、欠かせないものである、と思います。歌う、ということと、土の上に立つ、ということは、自分が何の上に立って生きているのか確かめる、という点で、僕の中では重なるからです。
『農というのは音楽のことだぜ』
この言葉の意味への探究は、まだまだ続きそうです。
ああ、道のりは果てしないなあ・・・。